またまた「レッテル」

お陰様で、毎日バタバタ(まあ、貧乏暇なしっていうパターンですが^^;)で、ブログは放置してました。せっかくの読者の皆様、ごめんなさい。

さて、最近、政治における「レッテル」貼りが話題になってますが、人はそもそも自分の理解を超えるもの、理解しがたいものには、防御本能からくる恐怖感を持つもの。だから、自分の理解できる枠に強引に当てはめるか、理解できない自分がいけないんじゃなくてそういう存在の方が問題だとばかり、批判だけする。それが、「レッテル」貼りに繋がっていることは、この前も書かせていただいた通りです。
その上、レベルの下がった記者がちゃんと理解しようともせず、にわか評論家に成り下がって感想文を書いちゃうから、情報不足のために単純化(「レッテル」貼り)して理解した気になってしまう昨今の政治情勢。
関係者が皆、議論を深めるのを諦めちゃったら、それが一番不幸だと思います。
「所詮あいつは・・・」という「レッテル」貼りによって個人的な安寧を得ようとしちゃうのは、人間の性(さが)として、しょうがない面がありますが、「国民の生活」とか「国家の安全」という大事な問題を、「まず批判ありき」で論じているだけでは、例えば、安保法制について、反対派が「今、日本は徴兵制に向かっている」という筋違いな主張を繰り返すだけ、という残念な状態が続くだけです。
まさか、「こっちが仕掛けなければ戦争なんか起きない」なんて本気で考えている人はほとんどいらっしゃらないでしょうが、反対派には、「我が国の安全保障はどうあるべきか?」という観点から議論を深めていただきたいものです。
せめてもの救いが、先日久しぶりにお会いした陸幕幹部が、「部下には、「無責任な論調等に振り回されるな!俺達は、決まったことに従って、粛々と、国家、国民のために働くだけだ」と言い聞かせている」と仰っていたことでした。
少なくとも、個人の問題(これは、皆、多かれ少なかれ「レッテル」貼りの繰り返しです。)に止まらない問題について責任のある方々(報道に携わる方々も含めて!)には、説明を放棄したり、理解を諦めたりして欲しくないですね。
実は、今回、「レッテル」から「風評被害」に話を発展させようと思ったのですが、枕に振っただけのつもりだった政治話から抜け出せず、心理学的には中途半端になってしまいましたが、「風評被害」については、いずれまた。